閑静な住宅地を20分ほど歩くと大通りに出る。大通りを進んだ先を曲がってしばらく行くと目指す学校があるが、その途中で彼と会ったのだ。
その日はたまたま早く家を出すぎて、いつもと同じ道をいつもと違う時間に歩いていただけだ。
本当に偶然で、たまたま角を曲がった先に彼がいたにすぎない。
凛と伸びた背筋はまるで定規を入れているようにまっすぐで、彼の性格そのもののような歩き方をしていた。
制服の上からでもわかる細く長い脚は一歩ずつが大きく、彼の背中を見かけたと思ったら、あっという間に小さくなっていて大通りへ出た頃には通勤中のサラリーマンの影に隠れて細い体は見えなくなってしまっていた。
無意識に追いかけていたのか、気付けば息が上がっていて。背中が見えなくなったことに随分と落胆したのも仕方がない。
自分は彼のことが好きだった。
きっかけは常に些細なものだという。
自分もそれに当てはまるとは微塵も思ってもいなかったが、たとえ背中だけでも姿を見るだけで鼓動が弾むことや、声を聞いた瞬間他の音はノイズとして処理されるなど症状は末期と言っていいほどだった。
もともと内向的な性格で、つい発言を躊躇ってしまう。
言葉少なく、教室で一人いることの多い彼は、長い前髪が鼻筋を隠してはいるが、整った顔が隠れきっているわけではない。肌の白さは女子たちが羨むほどだし、髪と同じ白銀色の睫毛は長く目を伏せれば影が頬に落ちる。
ただ、切れ長の瞳は鋭さを孕んでいて、触れればこちらが斬られそうな鋭い空気をまとった彼に近付くものはほとんどいなかった。
休み時間にともにいる姿を見かける、隣のクラスの大きな声と動作が特徴の男子はものともせずに会話をしているが、数人を除いて、教師らさえも彼を敬遠している気配すら感じる。
だから、実際は彼がどのような人物なのか誰も知らないに違いない。
周囲に対して関心が薄い彼が自分の負傷に気付いたのは偶然だったはずだ。けれど、嫌な顔一つぜずさも当然といった表情で、手首を捻った自分の代わりに相当重い資料をたった一人で運んでくれる。
こんな彼の姿を、きっと周囲は知らない。
自分だけが気付いた優越感と、唐突に襲った動機に胸を押さえた。
窓に映る自分の姿が急に気になる。髪は乱れてないだろうか、変にみられていないだろうか。
廊下を響く足音が止まったのを不審に思い、背後を振り返る彼に、なんでもない、という言葉の代わりに首を振る。
すぐに正面を向いて足を進めてしまうが、その背中はやはり資料の重さなど感じさせず天井からつられているようにまっすぐだった。
背後から教員の情けない声がしていたが、耳の近くでなる鼓動に邪魔され脳には届かない。
廊下の開いた窓から空気が流れ込む。草木が色付き始める十月のことだった。
あれから季節が二度廻った。
あと数か月もすれば、彼の姿を遠目でも見かけることはできなくなってしまう。
冬が近付くにつれて登校日は減り、数少ない登校日でも、受験のためと空席が目立つようになっていった。
だから、早朝にたまたま見かけた背中を追って登校することなど何の苦でもなく。むしろ、それに巡り合わすきっかけを与えてくれた友人には心の底から感謝していた。
やっと辿り着いた図書館の扉をあけると、暖かい空気が体を撫でて過ぎて行った。
ほう、と息をついて、後ろ手に扉を閉めていつもの窓際に陣取る。コートを脱ぎ、隣の席に掛けると鞄から参考書とノートを取り出した。いつものようにテーブルに広げ、一問一問解き進めていく。
静寂の中でシャープペンの芯が紙を滑る音が響く。友人が辛いといった静寂も、朝の厳しい寒さも頭が冴えて勉強に没頭するには丁度良かった。
しばらくすると、窓の向こうから砂を踏みしめる足音が近付いてきた。
慌てて顔をあげるが、あまりに勢いよく上げ過ぎたので外から見られていないかと上目がちになりつつ上体を伏せた。そこから見えるのは、剣道着を纏った彼の姿だ。
図書館の裏には道場が位置していて、水場はちょうど図書館の窓際に面している。当然屋外で、冷たい水しか出ないそこはこの季節疎まれていたが、彼は毎日そこで練習後の汗を拭っていた。
蛇口を捻り、掌で水を受けると徐に顔を突っ込む。雫が首を伝って胸元に滑り落ちていった。
先ほど自分が歩いていた時より暖かくなっているとはこれっぽっちも思えない。被った水が彼の体温をさらに奪っているのかと思うと、こちらがひやりとしてしまう。
常に顔の前に垂らされている前髪が水に濡れて纏わりつくのが煩わしいのか、雫の滴るそれを無造作にかきあげて普段露にならない額を剥き出しにする。その拍子に袖から覗く細い手首を雫が伝ってまた濡らした。
朝の静謐な空気は彼によく似合う。
彼が早朝に姿を現すと知ったのは、彼の背中を追いかけて息を切らせたあの日だった。
どうしてもっと早くに気がつかなかったのかと散々後悔もしたが、今更時間を戻せはしない。残りわずかな時間でも彼の姿を目に焼き付けるため、その位置でじっと見つめ続ける。
正直、友人がこなくなったのも好都合だった。
もう三年は部活を引退して久しい。彼も恐らく夏の大会を最後、引退したはずだ。だが、こうして自主練習続けることを教員たちは止めなかった。指導者不足が嘆かれる昨今、実力ある選手が居残るのに異存はないのだろう。
彼の友人も彼と同様に自主練習として放課後残っている姿を見かけることがあるので、剣道部の練習風景は今までとさして変わらないのかもしれない、と運動部に所属したことのない頭で考える。
ただ、早朝の練習は彼一人で行っていた。
そもそも彼の友人は自宅で道場を営んでいるため、こうして学校の道場を使って練習を続ける意味などないはず。朝もどうやら自宅の道場で鍛錬しているらしい。
どうにも彼の友人は、彼を異常に気遣っているように見えて仕方なかった。
気付けば孤立している彼を人の輪に収めておこうとするような。ギリギリのラインに留まっていられるように最後の一線を越させない気遣いが見える。
友人たちが話すには随分と無鉄砲で、無邪気で、一本気という評価だったが、それだけではない何かを感じていた。
ただそれは自分が思っただけで、単なる思い込みに過ぎないかもしれない。何しろ自分の目に映る彼の姿はどうにも輝いて見えてしまうので、その近くにいる彼の友人も同じように見えてしまっても仕方がない。
白い指先が赤く染まっている。
頬も、鼻先も、水に濡れ冷えたところが赤く色付くくらい彼の肌は不健康と言っていいほど白く、そして痛々しい。
あの日、初めて彼の背中を見つけた日も手袋をはめることなく、赤く染まった指先が外気に晒されていた。
それからたまに登校時に見かけることがあったが、小さくなる背中を眺めながらも赤く染まって揺れる指先が気になって仕方がなかった。
本人は気にもしていないかもしれないが、きっと彼の友人も気にかけているに違いない。あの赤さが目に焼きついて離れないで意識にこびりついている。
ふと、鞄に手を伸ばした。潜ませた紙袋が教科書に触れて音を立てる。
地元から離れたデパートで見かけた手袋。彼のイメージにぴったりだったので、渡せるあてもないのに買ってしまった。
意味もなく渡せば間違いなく不審がられる。なんと言って渡せばいい。衝動的に買ったはいいものの、一向に上手い口実など思い浮かばないで日々だけが無為に過ぎていく。
ただ、あの指の赤さが引けばいいと思っただけだった。
朝の寒さも身に染みるが、夕方の寒さはこれはこれで身に染みる。
ただ、あなたの姿を目にとめたくて朝早くからあの場所にいたんです、と。
不純な動機を告げてしまったら、この穏やかな空気は一変してしまう。わかっているから、今にもこぼれそうな思いを唇を噛みしめて堪えた。
秘めた思いは口に出してはいないから誰も知らない。
自分だけが知っている思いを今更声に出そうとは思わない。
だから、一瞬詰まった言葉をごまかすように、視界の端で揺れた赤い指先に話題を逸らした。
「指、赤くなってる」
思い出したように彼が視線を向けた。なんでもないことのように、ああ、と呟いてすぐに視線は空へ向かった。
「寒くないの?」
「ああ」
「痛くない?」
先ほどから彼の口からこぼれるのは母音のみだが、まるで詰問するように攻め立てる。
一言でも寒いと、痛いと言ってくれさえすれば。
なんでもないことのように、鞄の中で小さくなった手袋を渡せる気がした。
思わず鞄を持つ手に力が入る。
「構わない」
まっているから。
後に続いた言葉は空気に攫われるほど小さな声で。
指先に息を吹きかければ、白い空気とともにぼやけて消える。
決して、後から追いかけてくる友人のことを言っているわけではない。
根拠はないのに確信に近い。
溶けてしまいそうな切なげな表情がうっすらと彼の白い肌を覆った。
胸が締め付けられて痛い。
すぐそばに立って、クラスメイトの誰よりも言葉を交わしたとしても。
彼の目に映ることはない。
ただひたすらに自分の知らない誰かに想い焦がれ。
その身が凍てつこうとも、その痛みすら相手を思い出すきっかけに変えて。
こんなにも人を想えるのだろうか。
痛みすら慕情にかえる想い。
じっと、鈍痛を訴える胸を押さえて横顔を見上げていた。
どんなに視線を向けてもこちらに気付かない彼に目の前が霞んで見える。
離れた場所から、彼の名を呼ぶ声がした。
支度の終わった彼の友人が名前を呼んだのだろう、宙に浮いていた彼の視線が、声の聞こえる方に向かって焦点を結ぶ。
今の今まで浮かべていた儚さは消え失せ、常のどこか張りつめた空気が戻ってきていた。
砂を踏む力強い足音が近付いてくる前に、と早口に別れを告げる。動揺が隠せない表情を彼に見せるのは憚られたので慌てて俯き、背を向けた。
低く涼やかな声で名前を呼ばれ、足を止めた。
名前で呼ばれたことに違和感はなかった。
男子から呼ばれることなどほとんどないのに、彼に名を呼ばれることは当然だと思った。
振り向いた先に見た彼は、張り詰めた表情を浮かべておらずどちらかといえば、先ほど浮かべていた儚い表情に近い。
表情に乏しい彼を彩った、わずかな微笑み。
小さく動かされた唇を正しく読み取ることなど容易にできた。
ありがとう。
声がこぼれる代わりに呼気がこぼれて白く染まる。
瞬間、込上げてきたのは物言えぬほどの安堵だった。
見えない何かから解放されたような。ずっと自分ですら気付かない胸の奥に眠っていた不安を、その一言が溶かしたようで。
足元から崩れそうになるほどの感情に、手袋の中指先を握りしめた。そうでもしなければ叫び出してしまいそうだった。
言葉の代わりに首を強く横に振り、今度こそ背を向ける。
ひたすら足を進めれば、頬を熱い雫が流れて行った。
雪だ。想いが積もり過ぎて零れ落ちただけだ。
震える喉は決して、半ば駆け足になったせいではない。それでもごまかすように、駆けだす。
早く早く。
この想いがすべて溶けて流れてしまえばいい。
凍てつく夜は、終わりが見えず、どこまでも続いていくようだった。
あれから何年もの時が過ぎた。
「うわ、お前、指先真っ赤だぞ」
もげるんじゃないのか。慌てたような声が耳についた。
快活な声に滲んだ焦りに、声の主が余程気に留めていることを知る。
「うるさい、もげるはずがないだろう」
続いた声に、思わず顔を上げて声の先を探した。
確かに聞き覚えのある硬質な声。真っ赤に染まった指先。
忘れようもない背中を思い出して人混みを探せば、あの日と同じ、凛とした姿が人々の間から微かに覗いた。
仕事中なのだろう、コートの下にスーツを着込んでいる姿は当然初めて目にするが、なるほど様になっている。
彼の隣を歩く人物は、しきりに話しかけては邪険にされているが、それでも話しかけることを止めたりせず。真っ赤に染まった指先を手にとって、温めるように自らの手に挟み何度か摩り合わせた。
すぐに自分の手を取り返すように、乱暴な仕草で彼は腕を払うがそれに気を悪くすることもなく、変わらない笑顔のまま彼を覗きこんでいた。
待ち人、きたる。
おみくじに書かれているような文言が脳裏に浮かんだ。
同時に、抑えられない喜びが胸に溢れる。
冬色に染まった景色の中で、彼が一人きりでないことが言葉にできないくらい嬉しい。
彼の隣で笑うあの人こそが、凍てつく冬に彼を温めることのできる唯一の太陽なのだ。
「初芽」
足を止めた自分を訝しみ、名前を呼ぶ声がする。
緩んだ頬もそのままに声の主へと駆け寄った。
そうして、自分の太陽に腕を絡めて歩き出す。
白い手袋の下で、揃いの指輪がきらりと光った。
少し離れた場所で、涼やかな笑い声が聞こえたような気がした。
初芽から見た三成(若干家三)
何度生まれ変わっても私はあなたに恋をする
初芽がほぼオリキャラで申し訳ない感じに。
無意識に弱者に対して優しい三成を想像したらこんなことになりました。
三成のクラスメイトは幸村です。
実はリーマンにリンクしてるんですが、知らなくても問題なく読めます。
110122