佐吉には兄がいる。
兄と言っても血の繋がった兄ではなく、外聞的に「兄」と言った方がわかりやすいので関係性を問われた場合「兄」と答えるようにしている、とは「兄」の談だ。
しかし、互いに名前で呼び合い、年齢とは関係なく平等な関係を保ってくれる。
潔癖で融通がきかないところが玉に瑕だったりするが、そんな「兄」のことが佐吉は大好きだった。
佐吉には友がいる。
名前を「竹千代」という。
竹千代とは幼稚園年中の頃からの付き合いだ。
他人とは違う銀色の髪の毛をした佐吉はクラスに溶け込みにくく、いつも教室の隅で絵本を読んでいた。
そんな時に手を引いてくれたのが竹千代だった。
丸い目をくりくりとして、明るく笑う竹千代と佐吉が打ち解けるまでにそう時間はかからなかった。
それからというもの、佐吉の隣にはいつも竹千代がいる。
竹千代には兄がいる。
名前を「家康」と言うらしい。
竹千代は彼を「いえやす」と呼ぶので、もしかしたら佐吉と「兄」のように血のつながりはないのかもしれない。
それでも佐吉にとっては竹千代の兄だということに変わりはないので、特に気にすることもなかった。
そもそも、五歳児にそんなに細かい事情が理解できるはずもない。
「家康」は佐吉の兄と高校の同級生なのだという。
佐吉を迎えに来る兄とともに幼稚園にやってくるときもあれば、兄の後ろから苦笑いを浮かべて駆けてくることもある。
そんな時は大体、兄の機嫌が悪いのだった。
兄と家康の仲が悪いのかと言えば、決してそんなことはない。
竹千代と佐吉を挟んで四人で帰路に就くことは多いし、たまに二人して泊まりにくることもあるくらいだ。
しかし、家康と対峙する兄は、佐吉や竹千代に対して向ける表情を浮かべない。
いつだって柔らかい表情で佐吉や竹千代の頭を撫でてくれる兄が、佐吉と同じように家康の頭を撫でているところなど見たことがない。
竹千代が佐吉の手を握ってくれるととても嬉しくなって頬が緩んでしまうけれど、家康が兄と手を繋ごうとすると、兄は一層目元をつり上げて思い切り家康の手を振り払ってしまう。
竹千代が佐吉をぎゅっと抱きしめてくれると心がぽかぽか暖かくなるので、佐吉も竹千代のことをぎゅっとするけれど、家康が兄をぎゅっと、しようとするだけで兄の鉄槌が家康の脳天を直撃する。
そういうとき家康は決まって「すまんすまん」と笑みを崩さずに謝っているが、一体どこに謝る必要なんてあったのか、佐吉にはとんと見当がつかなかった。
ある日のことだ。
いつも通り、竹千代と二人で迎えに来てくれる二人のことを待っていた。佐吉は絵本を読むのが好きだったが、竹千代は動き回るのが好きだったので積み木で遊ぶことにした。
暫く待っていれば、珍しく息を切らせてやってきたのは佐吉の兄であった。
「みつなりがきたぞ、さきち!」
四角や三角を積み上げていた竹千代が、窓の外を見て大きな声を上げた。
二人して顔を見合わせ、慌てて積み木を片付ける。
佐吉の兄が先生に挨拶をすればそれを受けた先生が佐吉を呼びに来てくれるが、二人ともそれを待ち切れずに鞄と帽子を取り出して帰る支度を済ませてしまう。すると、佐吉を呼びにきた先生が二人を見て「偉いね」と褒めてくれるのだ。
先生に手を引かれるのではなく、逆に二人が手を引く勢いで下駄箱に向かえば、今日は佐吉の兄が一人きりで待っていた。
不機嫌なのではない、どこか張りつめていて表情が強張っているのが遠目にも分かった。
それでも佐吉と竹千代の姿を認めると、表情を和らげて二人の名前を呼ぶ。ただ繕われた表情は、ちっともいつもの笑顔ではなかった。
「みつなり、『いえやす』は?」
連立って来ることの多い兄を探して、竹千代が上履きのままきょろきょろと辺りを見回す。
三成が一人で先に来ていたとしても、すぐに家康が後ろからひょっこり顔を出すというのに、今日に限って佐吉が外履きに履き替えてもやってこなかった。
「家康は…しばらく来ないかもしれない」
家康の名前を聞いた途端、肩を揺らして強張った表情を浮かべた兄を、佐吉は見上げていた。
家康が部活や委員会で遅くなるときは佐吉の家に三人して帰り、家康が迎えに来るのを三人で待つ。逆に、佐吉の兄が遅くなるときは、家康に手を引かれて三人で帰るのだ。
しかし、今日は、四人でも、三人でもなく。竹千代を残し、二人で帰路を行く。
一人取り残された竹千代は茫然と二人の背中を見送るしかなく、佐吉は段々と遠くなっていく竹千代を、兄に手を引かれながら眺めるしかなかった。
いつもの道をいつもよりも大分早い歩調で歩く。
普段と変わらず真っ直ぐに伸びだ背筋で歩く兄は、幼稚園をあとにしてから一言も話さない。
何一つこぼれることのないよう、強く唇を噛みしめているのが見えるから、佐吉は何も言えなかった。
どうして今日は、家康が一緒じゃないの。
どうして今日は、竹千代も一緒じゃいけないの。
どうして今日は、そんなに泣いてしまいそうなの。
歩調についていけず、足が縺れて転びそうになる。
小さな悲鳴があがるが、しっかりと握られた力強い腕に支えられて膝を擦り剥くことはなかった。
息の上がった佐吉を見て、兄はくしゃりと端正な顔を歪めた。
やっと早すぎた歩みに気付いたのだろう。
「すまない」
赤く染まった柔らかい頬をまるで壊れもののように撫で謝ると、両腕に佐吉の幼い体を抱え上げ、また歩き出す。
兄の歩調に合わせて佐吉の体が揺れる。
肩に顔を押しつける形で抱え上げられているから、佐吉から兄の表情は見えない。ただ、上から呼気が降ってくるだけだ。
小さな手では兄の服を握りしめるのにいっぱいいっぱいで、こぼれそうな涙を掬いあげることもできなかった。
110421